やりたいか、やりたくないか
自分らしく生きる。
そのためには、やりたいことをやったらいい。
やりたいか、やりたくないか、で判断したらいい。
そんな話を聞いたことがあるが、そうなのだろうか?
わかるんだけど、どこかしっくりこない。
だって、やりたいことだけやってたら、成長がない。
ここで言っている成長とは、やればできるかもしれない部分を発見し、伸びるかもしれない部分を伸ばしていくこと。
社会に出れば、やりたくないことをやらざるをえないこともあって、でも実はそれをうまくできてしまう自分を見つけたり、メキメキ上達してしまう自分を見つけるきっかけになるかもしれない。
受け入れたくない異動を受け入れた結果、思わぬ才能が開花したり、
力不足でポジションを変わった野球選手が、望まなかったポジションで一躍スター選手になったり。
そんな例をテレビなどでも時々目にする。
ということは、やりたくないことから逃げているのは良くないのではないだろうか。
と、ここまで書いて気づいた。
自分は、成長することが自分にとって/人にとって良いこと と考えている。
どこかに 成長したい=自分の可能性を広げたい という欲求があるから、成長が期待できないと思われる「やりたくないことはやらない」という選択肢を否定的に見ている。
一方、肉体的および精神的なエネルギーの大きさによって、もっと可能性を広げてもっとできるようになりたい!と思う時と、今できることをもっと伸ばしたい、と思う時がある。
年齢を重ねていくと新しいことへの挑戦のエネルギーが衰えるので、これまでの可能性の範囲の中で伸ばせるなら伸ばしたい、という気持ちになるのだろう。
そうなると、やりたいことだけをやりたい ということになるし、それはそれで幸せなのだ。
また、そんな中で自分の可能性を広げたくなって、やったことのないことにも挑戦するエネルギーが湧いてくるのだろう。
そうなると、やりたいことをやっていても成長はできるし幸せになれそうだ。
やりたくないことをやる状況になったとしても、自分の中で「よし、やろう!」という気持ちになれるかどうかがカギだ。
「やる」という決意・意志は、前向きなエネルギーを生み出す。そして、もはや、やりたいとかやりたくないとかいう二元論の話からも脱している気がする。
さらに言えば、「やる」という意志の中には、それに挑戦したい!とか、やり遂げたい!という前向きな気持が含まれている。それはすでに「やりたい」という欲求にもとづいているのだろう。
表面的な「やりたいかやりたくないか」ではなく、心のそこからやりたいと思うのかどうか。自分の中の深いところからの意志なのかどうか、というところだろうか。
突き詰めれば、自分の中の生きる上での欲求の源泉のようなものに従って決めているのだろう。
表現としては様々な名詞で言い表される。
自分に正直に、とか、ソースとか潜在意識とか魂とかソウルとか。
表現はどうであれ、やっていることの理由、やらない理由を突き詰めれば、そこに突き当たる。
結局そこが自分を動かしているわけだ。
それを知っておくことは、生きていくうえで多少は都合がいいのではないかと思う。
知っておけば、自分らしく生きているかどうかの判断基準にもなりそうだ。
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